2009年12月17日

ダイオキシン類は

ダイオキシン類は肝臓のミクロゾームP450で徐々に代謝される。ダイオキシン類は尿中に排泄される量は少なく、胆汁排泄により糞便中に排泄される。排泄速度には種差が認められ、ラット・ハムスターの消失半減期は12~24日、モルモットが96日、サルで約1年である。疫学調査などによりヒトの半減期は約7.5年と考えられている。また、ダイオキシン類は母体から胎児へ移行するが、母体より胎児の濃度が高くなる例は知られていない。また、母乳中にダイオキシン類は分泌されるため、母体から新生児へ移行すると考えられている。

ラットを用いた実験で、食物繊維の摂取によるダイオキシン類の吸収抑制および排泄促進が報告されている。カネミ油症事件の治療研究では、コレスチラミンと食物繊維(米ぬか)の併用により排泄が促進されたことが報告されている。

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一般向けの書物やマスメディアによって、ダイオキシンが「史上最強の猛毒」と扱われることがあるが、これは誇張が過ぎると言える。たとえば、生物毒のように直接の即死効果を持つ毒素との比較において、ダイオキシン感受性の高い(後述)モルモットのデータから見積もっても、ボツリヌス毒素はダイオキシンに比べ、少なくとも数千倍の毒性を有する。また以下に示すようなヒトに対する暴露事例において、死亡例についてはほとんど確認できない。また、環境中からヒトが摂取可能なダイオキシン量はさらに少量であり、即死効果という点において、サリンや青酸カリなどと急性毒性を比較するのは不適切である。
動物実験や疫学調査によりダイオキシン類のヒトでの体内半減期は約7.5年と考えられている。

特に問題となるのは妊婦の胎児への影響である。さらに、母乳には脂肪が多く含まれており、ダイオキシン類は脂肪分に多く含まれることが知られており、ダイオキシン類を摂取した授乳期の母親は食事について十分注意する必要がある。

2009年12月01日

マタギ

マタギは、東北地方・北海道で古い方法を用いて集団で狩猟を行う狩猟者集団。一般にはクマ獲り猟師として知られるが獲物はクマだけではない(後述)。古くは山立(やまだち)といった。特に青森県と秋田県のマタギが有名である。その歴史は平安時代にまで遡るが、近代的な装備の狩猟者(ハンター)とは異なることに注意する必要がある。森林の減少やカモシカの禁猟化により、本来的なマタギ猟を行う者は減少している。

マタギの語源は諸説あって不明である。最も有力なものは、アイヌ語で「冬の人」・狩猟を意味するマタンギ・マタンギトノがなまったものだという説である。ただし、日本語のマタギという語が先にあり、この語がアイヌ語に取り入れられたという説もある。

マタギは夏季は農業などを営み、冬になると集団をつくって白神山地のような奥深い森林で数日間に渡って狩猟を行う。狩猟の対象は主にカモシカとクマだが、カモシカの狩猟が禁じられたため、現在では春先に冬眠から覚めたクマを狩猟するマタギが多い。
海図
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夏、狩りの季節の前に、あらかじめ森林の中にマタギ小屋と呼ばれる簡易な小屋を立て、ここに米などを運び込んでおく。狩猟が始まると、ここで寝泊りして狩りを行う。この小屋は非常に簡易なものなので、長持ちはしない。壊れると、翌年はまた新しい小屋がつくられる。

1つの集団の人数は通常8~10名程度だが、狩猟の対象によっては数十人編成となることもある。マタギの頭をシカリと呼ぶ。集団の各人はそれぞれ仕事を分担する。通常は、クマを谷から尾根に追いたて、先回りしている鉄砲打ち(ブッパ)が仕留める狩猟(巻き狩り)を行う。現代では鉄砲が使用されるが、槍や毒矢を用いた時代もあった。

2009年11月27日

航空機から投下される魚雷については

航空機から投下される魚雷については、第一次世界大戦中から実戦使用が開始され、第二次世界大戦中には対艦攻撃手段として広く用いられるようになった。しかし、第二次世界大戦後は、艦艇の防空火力の向上と魚雷より高速・長射程の対艦ミサイルが実用化されたことにより、対艦攻撃手段としてはほとんど用いられなくなった。現在では、航空機から投下される魚雷は、誘導魚雷であり、主に潜水艦を攻撃する手段として用いられている。

日清戦争での水雷艇による威海衛夜襲の戦果と、日露戦争の日本海海戦夜戦における水雷艇と駆逐艦の活躍により、日本海軍は魚雷の有用性に注目し、高性能な魚雷の開発に力を注いだ。

1933年(昭和8年)、日本海軍は酸素魚雷を開発・実用化し、第二次世界大戦において使用していた。レーダーが一般化するまで、日本海軍は夜戦を得意としており、水雷戦隊により敵に大きな損害を与え続けた。アメリカ海軍の重巡洋艦が魚雷発射管を廃止していたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は多数の魚雷発射管を装備していたことにも、日本海軍の雷撃戦重視がうかがえる。ちなみに大戦中に日本軍が使用した酸素魚雷は、米軍の魚雷に比べて炸薬量、射程の点で優位にあった。また航跡がほとんど発生しないため、視認が困難であったという。米軍からは「long lance(長槍)」と呼ばれて、恐れられていた。
下町東京
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日本海軍の攻撃機では、飛行場など敵の基地の攻撃には大型爆弾、敵艦隊の攻撃には主に魚雷を利用していた。ミッドウェー海戦においては、南雲艦隊の空母が、攻撃機に敵基地攻撃用の爆弾を搭載していたのを、敵艦隊発見で魚雷に積み替えているところを敵機に襲われ、格納庫内の爆弾と魚雷が誘爆した。これにより日本海軍は空母4隻を失い、戦局が逆転するきっかけとなった。なお、この時は爆弾の命中のみで、魚雷は1発も命中していない。

戦争末期には大型魚雷に操縦席を設け、人間が搭乗して誘導し、敵艦船に自爆体当たりする人間魚雷「回天」という特攻兵器も開発された。ちなみにイタリアでも人間が搭乗する魚雷が作られたが、こちらは弾頭を目標とする艦の底に設置した後に搭乗者が脱出するという運用法であり、人間魚雷の名前はついていても体当たりはしない。

2009年11月13日

家紋のやりとり

家紋は度々、人から人へ譲渡の対象になっている。しかし、当時も現在も家紋に関する使用の制限は特別な紋章を除いてなかったため、家紋を譲渡した側の人間はその家紋の使用を制限されるという訳ではない。

例えば、典型的なものと言えば、皇族の家紋である菊紋が挙げられる。天皇は功績のある者へ、例えば豊臣秀吉などに授けている。また更に、天皇から授かった桐紋などを将軍等の有力者が、功績のあった優秀な家臣や家来に授けることがあった。その習慣は室町時代まで遡り、足利義満が細川頼之に自身の家紋を贈紋したことから始まったと言われる。こういった家紋の受け渡しを、賜与(しよ)などと呼ばれ、授かった家は一家の大名誉として喜んだと言われ、与えられた紋を拝領紋という。室町幕府13代将軍足利義輝が織田信長の父織田信秀に桐紋を授け、その後、信長にその桐紋が父から引き継がれた。その桐紋を肩衣につけ誇らしげにしている肖像画が長興寺に保存されている。また、豊後国の大友氏はその紋を授かった者を「御同紋衆」と呼び、重用したという。
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身分の変わらない同格者同士による家紋の譲渡も存在したが、家督の相続や、婚姻によるものが大半である。

家紋ではないが、主に関西地方において家同士の婚姻が主だった折は、女性が嫁ぐ場合に際して、婚家から女紋を持っていく例も見られる。

2009年11月02日

避雷器の歴史は

避雷器の歴史は古く、例えば送配電用としては、1900年代初頭に酸化アルミニウム避雷器が実用化されており、1930年代には炭化ケイ素(SiC)を用いた弁抵抗避雷器が登場、1980年代からより特性の優れた酸化亜鉛(ZnO)避雷器に代ってきている。

日本では、高圧送配電系統については以前より避雷器の設置が義務付けられており、電気規格調査会 JEC 203、JEC 217 さらに JIS C4608 などの統一規格があったが、これ以外の低圧回路などに用いる避雷器については特に規定はなく、メーカーの自主規格に依っていた。 しかし2003年以降、国際電気標準会議(IEC)のものに従い、低圧電源用避雷器などについても、統一規格が設けられるようになった。
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2極セラミックGDT最も古典的なサージ防護素子である。避雷管などとも呼ばれる。放電による電圧制限特性を利用したものである。古くは一対の放電電極を空気もしくは真空雰囲気中に配したものであったが、今日では特殊な用途のものを除き、ネオン、アルゴンなどの不活性ガス雰囲気中に配したものが一般的となっている。侵入したサージ電圧により放電電極間に放電が生じると、電極間のインピーダンスが急激に低下、ほぼ短絡状態となり、サージ電圧を非常に低く抑制することができる。右の写真のような2極のものの他に3極のものなどもある。
なお、サージ防護素子がサージの処理を開始する電圧を動作開始電圧といい、サージ防護素子の動作によって抑制された電圧のことを制限電圧という。
GDTを電力系統などにそのまま用いると、サージ侵入が終息しても、電源からの供給電圧により放電が継続し、放電電極間に電源からの大きな電流が流れ続ける問題がある。これを続流(follow current)という。

2009年10月23日

編入学

編入学(へんにゅうがく)とは、その学校に在籍していなかった人が、第1学年の始期を過ぎた途中から入学して、そのまま学ぶことである。

第1学年の始期に入学することは、新入学ともいい、編入学は、通常の入学である新入学以外の入学形態の1種である。また、学校において編入(へんにゅう)とは、入学の際に行うかどうかを問わず、学習者を年齢や心身の発達状況などに応じた相当の学年に組み入れることをいう。編入学では、入学と編入を同時に行う。

 編入学するに当たっては、編入学試験を課される場合が多い。また、高等学校以上の学校種に編入学にする場合は、取得単位の認定が必要である。
双子座
蒼真の一刀両断
太陽と月
太郎のデジタルテクノロジー
大悟の千差万別
大豆の神さま
拓海の春休み
竹の子ちゃんコンピュータ社会
朝虹の日記
天の川
天使のしっぽ
電車男
冬を待つ季節
桃と花子
透明人間
二十面相
日本一の息子
猫の足
白い秋桜
隼の生活

 高校では、不登校などの理由で、高校に在籍していない者がサポート校へ編入学するケースが多い。高等専門学校や短期大学から大学への編入学者も多い。

 大学の編入学試験は、短期大学・高等専門学校(高専)や専修学校専門課程(専門学校)の卒業者及び卒業見込み者、4年制大学2年次修了者などを対象とし、主に大学3年次に入学する者を選抜する試験である。編入学年次を2年次とするところもある。文系学部や医学部等においては受験資格を大卒・大卒見込みとする場合もありこれは学士編入と呼ばれる。

2009年06月22日

心理学は、直接的に心的状態を研究する科学である

心理学は、直接的に心的状態を研究する科学である。心理学は一般に、具体的な心的状態:たとえば喜びや恐れ、強迫といった状態について調べるのに経験的方法を用いる。心理学はこれらの心的状態が互いにどのように関係しているのか、また心的状態が人間の器官への入力や出力とどのように関係しているのかについての諸法則を調査研究する。[58]

上記のことを示す一例として、知覚の研究があげられる。知覚研究の分野で仕事をする科学者は、形態の知覚についての一般原理を発見してきた。形態の心理学の法則のひとつは、同じ方向に動かした対象は互いに関連しているように知覚されることを示す。[50] この法則は、視覚的入力と心的な知覚状態との関係を描き出している。しかしこの法則は、知覚状態の「本質」なるものについては何も示してはいない。心理学によって発見された諸法則は、これまでに述べられた心身問題に対する解答のすべてと適合している。
クラシック音楽
南極と北極
への付く言葉
ザ・和歌山
産業とは!
世界の演劇
慣用句集
かの付く言葉
七五三
靴に囲まれて
自転車
婦人科
香道
遺伝子疾患
洞窟
ジョギング
債券
クリケット
通訳
アメリカンフットボール

この項目のほとんどの議論は、現代の西洋哲学の中でいわゆる「分析哲学」(時には英米哲学といわれることもある)という有力な学派(スタイル)の業績にしぼって論じられている。[59] しかし他にも、大きなくくりで「大陸哲学」とまとめられる思想の流れも存在する。[59] ともかく、この呼び名の下にはさまざまな学派が総括されているが(現象学や実存主義なども含まれる)、これらは分析哲学とは異なった次のような傾向をもっている。分析哲学が言語分析や論理分析に焦点を合わせがちなことに対して、大陸哲学はより直接的に人間の実存や経験に焦点を合わせることが多い。特に心についての議論に関しても、分析哲学のように言語形式の分析に係わったりせず、思考と経験の概念を直接的に把握しようとする傾向が大陸哲学には強い。[59]

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの『精神現象学』において、ヘーゲルは心(精神)の3つのタイプについて区別して議論している。まず「主観的精神」、これは一個人がもつ精神である。次に「客観的精神」、これは社会や国家がもつ精神をいう。最後に「絶対精神」、これはあらゆる概念の統一を意味する。ヘーゲルの『エンチクロペディ』にある「精神哲学」を参照せよ。[60]

現代における、ヘーゲル主義の伝統に呼応してあるいは対抗して発達してきた2つの学派が「現象学」と「実存主義」である。現象学は、エトムント・フッサールによってはじめられ、人間精神の内容に焦点をあて(ノエマを参照)、現象学的過程がいかにして我々の経験を形作るのかに焦点を合わせるものである。[61] 実存主義は、セーレン・キェルケゴールやフリードリヒ・ニーチェの著作に基づく思想であり、経験の内容と心がこうした経験をどのように取り扱うかに焦点を合わせるものである。[62]

あまり知られていないが重要な例として、心の哲学に取り組む哲学者であり認知科学者でもある、両方の伝統を統合しようとしたロン・マクラムロックがいる。ハーバート・サイモンの考えを借り、メルロー=ポンティやハイデガーの実存主義的現象学からも影響を受けて、マクラムロックは、世界内存在("Dasein", "In-der-welt-sein") である人間の条件からして、人はその存在から抽象したやり方や、彼自身をその一部として統合した経験的対象から切り離して分析する方法では、自分自身を理解することができないことを示す

2009年06月05日

宗族組織の解体とともに中国的な封建制度

宗族組織の解体とともに中国的な封建制度が崩壊していったことは、おおむね認められている。宗族制度がいつごろ活期を迎えたかについては定説がないが、春秋あるいは戦国初期のころには原始共同体が完全に解体され、邑を中心として貴族支配が確立されていたとする見方が一般的である。戦国中期頃から核家族の存在が確認されはじめ、客や遊侠といった誠実関係を中心とした支配-被支配の関係が見出されるようになった。宗族的関係も儀礼を中心としたものに変質したとする説もある。

また春秋時代には会盟政治と呼ばれる政治形態が出現した。これは覇者とよばれる盟主的国家によってほかの封建国家に誠実関係を築くものであるが、従来の封建関係以上に強力な支配-被支配を生み出すものと考えられている。会盟の誓約は神の権威を借りて会盟参加者に命令をできる関係を築くものと考えられている。しかし覇者の性格については定説がなく、あらたに台頭した後進地域の指導者あるいは異民族支配者であるとする見方もある。五覇については五行思想との関連から戦国時代になってから形成されたものであるという見方もある。
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戦国末期には宗族組織はほとんど崩壊あるいは変質していたため、諸侯は支配地の住民を宗族に基づいて支配するのではなく、個別人身的な支配関係を構築していったとされる。封建制度は意味をなさなくなり、郡県制に置き換えられた。秦の始皇帝は中国を統一すると全国全てを郡と県に分け、中国全土を完全な中央集権的郡県制で支配した。その秦を滅ぼした前漢では郡県を布く地方と新たに諸侯王を封建する地方とに分ける郡国制を行った。当初郡国制では諸侯に貨幣鋳造権や軍事権が認められていたが、徐々にこのような権力は回収された。後漢時代にはすでに恩給と変わらないものとなっており、それも形骸化して、爵位だけを授ける封爵制として存続した。

周の礼制を規範とする儒教では周の封建制を重視するが、官僚となり中央集権政治を担うようになった儒者たちにとって大きな矛盾をはらみ、たびたび封建論あるいは郡県論として論議された(ここでいう封建制・郡県制は歴史学上の実際のものではなく儒教思想上の理念として語られたものである)。特に明の東林党や遺老の学が有名であり、そこでは官僚が責任者として自発的に地方統治を行うための制度として封建制が議論された。顧炎武は「封建の意を郡県に寓す」という郡県制のなかに封建制を組み込ませ、地方分権型の政治体制を主張している。

2009年05月01日

会津松平家

会津松平家(あいづまつだいらけ)は、江戸時代に陸奥国会津を治めた松平氏の一支系で、親藩・御家門の一つ。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の四男保科正之を家祖とする会津藩の藩主家。

保科正之は徳川秀忠の妾腹の子で、秀忠の正室於江与を憚って将軍の子としての正式の認知を受けず、信濃国高遠藩の保科正光の養子として育てられた。秀忠・お江与の死後、3代将軍家光は高遠藩主(3万石)となっていた異母弟正之を取り立て、出羽国山形藩20万石を経て陸奥国会津藩23万石に封じた。

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正之は将軍の実弟でありながら謙虚に身を処し、家光の信頼を受けて4代将軍家綱の後見役に立てられ、幕政に重きをなした。当初は松平の名乗りも固辞し続けていたが、正之死後の1696年、3代正容(正之の子)が松平を称するようになり、これにより保科家は会津松平家となった(このため、正之自身は松平姓を称してはいないが、初代と数える)。

7代将軍家継死後も秀忠の男系血筋を伝える唯一の家だったが、7代容衆の早世により男系は断絶、以後養子が続く。9代容保は8代容敬の娘婿となって美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。高須松平家は、9代藩主義和より徳川家康の十一男頼房の血筋である。容保は幕末に京都守護職に任ぜられ京都の治安維持に活躍したために倒幕派と敵対し、大政奉還が行われて幕府が倒壊した後、15代将軍徳川慶喜が新政府側に降伏すると、奥羽越列藩同盟の中心となって新政府軍と戦った(戊辰戦争)。1868年、容保の隠居により、家督は徳川斉昭の子で養子の10代喜徳に譲られるが、容保が藩主を辞していたため、会津藩は事実上の廃藩となった。同年、若松城での戦い(会津戦争)に敗北し、旧会津藩領は没収された。喜徳は新政府から謹慎を命じられた。

1869年、容保の嫡男で11代容大に家名存続が許され、改めて陸奥国斗南藩3万石(現在の青森県むつ市)を与えられ、知藩事となった。廃藩置県後は華族に列し、子爵を授けられた。

容大の次の会津松平家の家督は容大の弟(容保の五男)・松平保男が容大の養子となって継承した。保男は海軍軍人となり戦艦摂津艦長、横須賀海兵団長を歴任し、海軍少将まで昇進した。雍仁親王妃勢津子(分家の松平恒雄の娘)は成婚前に保男の養女となった。会津松平家の現当主は保男の孫・松平保久であり、現在はNHK芸能番組で管理職を務めている。

分家の松平恒雄(容保の四男)は外務省に入って駐米大使・駐英大使を歴任し、戦後は初代参議院議長となった。雍仁親王妃勢津子妃は恒雄の長女である(成婚前に本家の養女となる)。恒雄の子松平一郎は東京銀行会長。一郎の子恒孝は、1963年に徳川宗家の第18代当主を継承した。

2009年04月17日

ブルボン家

ブルボン家(Maison de Bourbon)は、ヨーロッパの王家で、フランス王家カペー家の支流のひとつ。現在のスペイン王家であり、現在のルクセンブルク大公家も男系ではブルボン家の系譜を引いている。

ブルボン(Bourbon)の語源はケルト語で「泥」(Borvo, もしくは Borbo)の意味である。
ルイ9世の第6子クレルモン伯ロベールが婚姻によりフランス中部ブルボネーの所領を獲得し、その子ルイ1世がフランス王シャルル4世によりブルボン公に叙せられたのがブルボン家の起こりである。

歴代ブルボン公(カペー朝からヴァロワ朝まで) [編集]
ルイ1世(1327年 - 1341年) - 娘ベアトリスはボヘミア王ヨハンに嫁いでルクセンブルク公ヴェンツェル1世を生んだ。
ピエール1世(1341年 - 1356年) - ルイ1世の子。ポワティエの戦いで戦死した。長女ジャンヌをフランス王シャルル5世に、次女ブランシュをカスティーリャ王ペドロ1世に、三女ボンヌ (en) をサヴォイア伯アメデーオ6世 (en) に嫁がせた。
ルイ2世 (en) (1356年 - 1410年) - ピエール1世の子。姉ジャンヌの子シャルル6世の摂政を務めた。
ジャン1世 (en) (1410年 - 1434年) - ルイ2世の子。
シャルル1世 (en) (1434年 - 1456年) - ジャン1世の子。ブルゴーニュ公ジャン1世(無畏公)の娘アニェス (en) と結婚。娘マルグリットはサヴォイア公フィリッポ2世に嫁いでフランス王フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワを生んだ。
ジャン2世 (en) (1456年 - 1488年) - シャルル1世の子。最初の妻ジャンヌはフランス王シャルル7世の王女。
シャルル2世 (en) (1488年) - ジャン2世の弟。兄の死後に公位を継いだが同年に死去した。
ピエール2世(1488年 - 1503年) - シャルル2世の弟。妻アンヌはルイ11世の王女。妻とともに義弟シャルル8世の摂政を務めた。
シュザンヌ(1503年 - 1521年) - ピエール2世の娘。
ブルボン=モンパンシエ家

シャルル3世(1505年 - 1527年) - シャルル1世の弟モンパンシエ伯ルイ1世 (en) の孫。シュザンヌと結婚してブルボン公を継承。国王フランソワ1世によりブルボン元帥に叙されるが、後に家産を没収される。その後、神聖ローマ皇帝カール5世に仕えてイタリア戦争でフランソワ1世を捕虜にするなどの活躍をしたが、1527年にローマで戦死した。ローマ略奪は司令官であるシャルル3世の死によって引き起こされた。
ブルボン=ラ・マルシュ家またはブルボン=ヴァンドーム家

シャルル4世(1527年 - 1537年) - ピエール1世の弟ラ・マルシュ伯ジャック1世 (en) から5代目の末裔。ジャック1世の子ジャン1世 (en) は婚姻によりヴァンドーム伯位を獲得し、次男ルイ (en) から3代にわたり継承されていたが、シャルルの代に至ってヴァンドーム公に昇叙された。のち、シャルル3世の死により宗家が断絶したため、ブルボン公位と所領を相続した。
アントワーヌ(1537年 - 1562年) - シャルル4世の子。ジャンヌ・ダルブレとの婚姻によりナバラ王位を獲得した。ナバラ王の称号はアンリ4世からフランス・ブルボン家の歴代の王によって継承された。
アントワーヌの弟のうち、ブルボン枢機卿シャルルは国王アンリ3世の死後に甥アンリ4世の対立王に擁立されたが、間もなく死去した(シャルル10世、1589年 - 1590年)。末弟のコンデ公ルイ1世はブルボン=コンデ家の祖である。

フランス・ブルボン家 [編集]
フランスブルボン朝も参照

アントワーヌとジャンヌ・ダルブレの子アンリは、父からブルボン公およびヴァンドーム公位を、母からナバラ王位を継承していたが、ヴァロワ家断絶の後を受けてフランス王位を継承した(アンリ4世)。ルイ14世のとき絶対君主制を確立したが、フランス革命で一時中断、復古王政ののち1830年の7月革命をもって嫡流はフランス王位を失った。

歴代国王(フランスとナバラの王) [編集]
アンリ4世(1589年 - 1610年)
ルイ13世(1610年 - 1643年)
ルイ14世(太陽王、1643年 - 1715年)
ルイ15世(1715年 - 1774年)
ルイ16世(1774年 - 1792年)
ルイ17世

(復古王政) [編集]
ルイ18世(1814年 - 1824年)
シャルル10世(1824年 - 1830年)

スペイン・ブルボン(ボルボン)家 [編集]
スペイン・ブルボン朝も参照

スペインでアブスブルゴ(ハプスブルク)家が断絶した後、1700年にフランスのルイ14世が孫のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世)をスペイン王に即位させた。この企てはスペイン継承戦争を招いたが、戦争の結果各国が即位を承認し、ボルボーン朝が成立した。1931年にアルフォンソ13世が退位した後、長く王位を失っていたが、1975年に孫のフアン・カルロス1世が即位して王制が復活した。

歴代国王 [編集]
フェリペ5世(1700年 - 1724年、1724年 - 1746年)
ルイス1世(1724年)
フェルナンド6世(1746年 - 1759年)
カルロス3世(1759年 - 1788年)
カルロス4世(1788年 - 1808年)
フェルナンド7世(1808年、1813年 - 1833年)
1808年から1813年までホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)が在位。
イサベル2世(1833年 - 1868年)
1868年から1870年まで空位(摂政:フランシスコ・セラノ)。
1870年から1873年までアマデオ1世が在位。
1873年から1875年まで第一共和政。
アルフォンソ12世(1875年 - 1885年)
アルフォンソ13世(1886年 - 1931年)
アルフォンソ13世はアルフォンソ12世の死後に生まれ、誕生と同時に即位した。その間は空位。
1931年から1939年まで第二共和政。
1939年から1975年までフランコ政権。
1941年に名目上の王位をバルセロナ伯フアンに譲位(フアンは1977年に権利放棄)。
フアン・カルロス1世(1975 - )

カルリスタ [編集]
フェルナンド7世死後、その娘であるイサベル2世が即位したが、フェルナンド7世の弟であるモリナ伯カルロスはこれに反発して、カルロス5世として独自に即位した。以後、スペインはイザベル2世派とカルロス5世派とに分かれて内戦が勃発した。カルロス5世及びその子孫を支持する一派をカルリスタと呼ぶことから、この内戦はカルリスタ戦争という。カルロス5世の男系子孫の最後の男子であるサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス(アルフォンソ・カルロス1世)が死去した後は、カルリスタはそれぞれ独自の王を立て、分裂している。なお、モンティソン伯フアン・カルロス(フアン3世)以降はレジティミストの要請により名目上のフランス王位も兼ねていた(後述)。

モリナ伯カルロス(カルロス5世、1833年 - 1845年)
モンテモリーン伯カルロス・ルイス(カルロス6世、1845年 - 1861年) モリナ伯の長男。
モンティソン伯フアン・カルロス(フアン3世、1861年 - 1868年) モリナ伯の次男。フランス王位請求者。
マドリード公カルロス(カルロス7世、1868年 - 1909年) モンティソン伯の長男。フランス王位請求者。
マドリード公ハイメ(ハイメ3世、1909年 - 1931年) マドリード公カルロスの長男。フランス王位請求者。
サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロス(アルフォンソ・カルロス1世、1931年 - 1936年) モンティソン伯の次男。フランス王位請求者。

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